Bloom the Dream/実在する虚像とリアル
このライブを既存の作法で評するのは難しい。というのも、彼女たちにはライブにおいてなぞるべき物語が存在しない。まだナンバリングライブではないので当然といえば当然なのだが、不利であることに変わりはない。また、ラブライブ!シリーズの象徴たるシンクロパフォーマンスですら、元となるMVなどは特になく、あるのはリリックビデオとアプリ内で行われたFes×LIVEくらいなものだ。
これまでのラブライブ!シリーズのノウハウが適用できない。これは、到底有利とは言えない状況だろう。
だがそもそも、エンターテインメントというものは観客が結果を享受するだけで成立し得る。その過程に関わらず結果が重要で、パフォーマンスの質そのもので観客を魅力することができる。
しかし大衆は強欲なもので、その結果に至るまでの過程を、エンターテイナーの人生を求め始める。だからこそドキュメンタリーなんてものが存在する。
これまでのラブライブ!シリーズはそんな観客の欲求をこれでもかと満たしてきた。キャストのシンクロパフォーマンスだけでなく、そこに至るまでの空白にキャラクターの物語を注ぎ込むことで確かな質量を持った物語を作り上げてきた。
なんなら、過程の方も重要だと言ってもいい。スクールアイドルにとってはその軌跡そのものも美しく、十分に輝かしいものである。
では、今回はどうか。リアルタイムで同じ時間を生きることが特徴であるにも関わらず、そこに物語も文脈も乗せることはできない。過程もなにもない。その色を示せない。これは困った。
しかも、客席にいるほとんどはこれまで散々先代らのライブで欲望を満たしてもらってきたモンスターたちだ。この手札で奴らを満足させるのは難しい。
しかし、確かにあのライブで彼女たちは実在性を勝ち取ってみせた。リアルタイムを謳う彼女たちに相応しいものを見せたくれた。
今回は、それについて語っていきたいと思う。
蓮ノ空のリアル
ここまで、散々蓮ノ空が他のタイトルと比べて不利な点ばかりを挙げてきた。
しかし、蓮ノ空にはまだ他とは違う点がある。
それは、リアルタイムのバーチャルスクールアイドルだということだ。彼女たちは私たちと同じ時間の流れの中で確かな今を生きている。
その「リアルの虚構」こそが彼女たちのドラマに、息づかいに、実在を与える。
私たちは、「スクールアイドルを支えるみんな」でも「同好会のあなた」でも「夢追う姿に憧れる私」でもなく、あくまで1人の「ファン」だ。なんなら彼女たちの活動を見守る「観測者」と言ってもいいかもしれない。
彼女たちは、「輝かしい偶像」でも「普通人代表」でも「同好会のみんな」でもなく、私たちが応援する「あの子」だ。私たちは彼女たちの学校生活を垣間見たり、配信を見たり、時にはコメントでおしゃべりしたりする。
そして、そんなあの子が今日はライブをするらしい。
訪れた会場でライブが始まると、音楽と共に映像が流れ出す。
そして現れたのは日野下花帆──
ではなく、楡井希実だ。
そりゃそうだ。キャストのライブなんだから。
だがなんだか不思議な様子がある。スクリーンに映る日野下花帆とステージに立つ楡井希実の振り返る振る舞いが全く同じなのだ。
ほかのメンバーも同じ。メンバーによって振り返る速度なんかも違うのに、それに見事に合わせてみせた。
ここは、後の生放送でも何度も練習をしたと語っていた。
いずれにせよ、どうやら彼女たちは物語をなぞることなくその身一つでシンクロする選択肢を取ったようだ。ずいぶんと難しいものだろう。
だが、彼女たちはそれを選ぶ。
それはなぜか。きっと、そうすることが正しいからだ。
別にキャストがなんだかんだでパフォーマンスをしてトークやMCをしてライブを終える、それでもオタクの多くは満足するはずだ。だってオタクはチョロいから。
でもそうはしない。それは正しくないから。
だから、難しくても、取っ掛りがなくても、ひたすらに手札を使って最高の今を作り上げる。
そして彼女たちは、そのパフォーマンスで、立ち振る舞いで、息づかいで、確かな蓮ノ空の実在を感じさせてみせた。私はステージ上に私たちが応援する「スクールアイドルのあの子」を見た。
それはきっと、そこに熱を感じたからだろう。
媒体も、形式も、色々なことがこれまでとは違うにも関わらず蓮ノ空スクールアイドルクラブがラブライブ!シリーズであるのは、彼女たちがスクールアイドルであるからに他ならない。それこそが、他の何を差し置いてもラブライブ!の本質たりうる。
そしてあのライブでは確かにそれを感じた。
透き通る歌と華麗なダンスを見せたスリーズブーケに、迫力のある音とステージを大きく使ったダイナミックなパフォーマンスを見せたDOLLCHESTRAに、観客を盛り上げ新曲のサプライズまで見せたみらくらぱーく!に、確かにスクールアイドルを見た。持てる手札を全て出し尽くして「今」をぶつけてくるその姿は、限りある今を必死に生きるスクールアイドルそのものだった。
それは、蓮ノ空が作り出す世界に引きずり込まれるには、十分だったはずだ。
蓮ノ空の今
リアルタイムを謳う彼女たちの確かな実在を見た。
それはいい。
しかし、後日見たスクールアイドルコネクトの配信で行われたのは何事もなかったかのようにいつも通りのトークだ。
いや、待ってくれよ
じゃあなんだ、私は確かに彼女たちの実在を感じたのに、あれは嘘だったのか。
あの光景は幻覚で空想で虚構で、存在しないものだったのか。
不思議と、そうは思わなかった。
それはきっと、あのライブが「オープニング」ライブイベントだったからだろう。恐らくこれは、アニメなんかで毎話流れる「オープニング」と同列に語っていいと思う。
そもそも、オープニング映像での登場人物は、本編でのその人らと経験を共有しない。
これまでのシリーズのアニメなんて、1話目から未加入のメンバーたちが勢揃いで突然ライブをし始める。そこに違和感はない。
そして流れる映像には、過去や今、そして少し先の未来を内包した「その作品の雰囲気そのもの」とも言える映像が展開される。
オープニングは、その物語に観衆を引き込むために存在するものだ。
今回のライブもそうだった。そこにいるのは、日野下花帆たちであって、日野下花帆たちではない。しかし、だからこそ浮き彫りになる彼女たちの「今」
そりゃあ今はまだまだ未完成だったり荒削りな部分もあったけれど。
蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブに加入した、あるいはこれから加入する彼女たちが見せる「今」と、これからの未来への期待。
あそこに存在した確かな熱量と努力の形跡は、それを感じさせるには十分すぎるほどのパフォーマンスだったと思う。
蓮ノ空の虚構
先ほど、私は我々が「観測者」であると語った。
しかし、今はもう自分を「観測者」だとは思っていない。
そうさせたのは、アンコールにおいて夕霧綴理が語った言葉だ。
あそこにいたのは、夕霧綴理本人ではないかもしれない。でも、確かに彼女の「今」を映し出す存在だ。
そんな彼女は我々に問う。
「これが今の蓮ノ空女学院スクールアイドルクラブだ」「私たちはどうだったか」と。それに私は、惜しみのない拍手と歓声で答えた。
そりゃもちろん、その流れ自体は、予め用意されていたシナリオなのだろう。私たちの反応を考慮した上でシナリオが組まれている。私たちも求められるアクションをなんとなく察している。そのライブがどうだったかに関わらず、そこでの彼女の勇気を振り絞った問いかけに答えないだなんて興醒めなことはない。
だが、あの時の反応が空気を読んだものだとか嘘だとかは到底思えない。
それは、彼女たちが確かな努力の果ての熱量を見せてくれたからだろう。
あの瞬間、彼女たちの虚構は、ライブという形で確かな質感を持って現れた。それぞれの過程があり、その先に作り上げる今を見た。
だから、私もそれに精一杯応えた。どうだったかと尋ねられたのなら惜しみのない拍手と歓声を贈った。
そうなってしまってはもう私は観測者ではいられない。ただ彼女たちの活動を見守り、応援するファンそのものだ。どこか遠巻きに物語を眺めていた私を、たった一つの問いで「ファン」に作り替えてしまったのだ。
では、そんな不安げに問いかける6人を、これまでの伝統や歴史を背負う6人を、支えるのは誰か。それはファンに他ならない。
もちろん、私一人がいなくたってあそこにいた5000人超や配信で観ている人たちによって支えられていくだろう。現実なんてそんなもんだ。実在しているのならなおさらだ。
しかし、そうだとしても、私は客席にいるべきなのだ。あの6人が伝統を背負っていくのなら、あの6人が先代たちの重ねてきた歴史の先を歩こうというのなら、私は応援したい。応援しなくては。そう思わされたのだ。
虚像が見せた物語から生まれたリアルというのは、なんといってもラブライブ!らしい。
あれこそが、新しいラブライブ!としてどこかピンと来ていなかった私が、ラブライブ!シリーズの新たなタイトルの始まりを感じた瞬間だったと思う。
Bloom the Dream。
彼女たちの「今」と「未来の予感」を感じさせる、素晴らしいライブだったと思う。